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ぷつぷつ日記

ぷつぷつ日記

稲葉さんについて(詳しい・コピペ)

少年時代


 稲葉さんの少年時代はだれもがみとめる優等生、といった感じらしい。
 かわいくて上品で頭がよくて・・・といったぐらい。
 もちろん女のこにもてていたのは用意に想像がつく。
 しかし、成績優秀でスポーツ万能だった稲葉さんは、
 少年時代はシャイなほうで、人前で歌を歌うなんてことは
 とてもできなかったそうである。
 「考えられなかったですね、人前で歌うなんて。幼稚園から中学校まで、
 スポーツのことしか頭になかったし。」と本人も語っている。
 さらに、プロになった今でも同級生の前で歌うことには
 照れがあるらしい。お兄さんの結婚式があったときなど、
 みんなから「浩志~何かうたってくれ~~」
 と言われたにも関わらず、結局照れまくって歌えなかった
 というエピソードも残っているのだ。



  
高校時代


 稲葉さんが本格的に音楽に取り組み始めたのは、
 高校に進学してからのことである。
 高校時代のバンド名はICBM(核弾道ミサイルからとったもの)。
 ICBM最初で最後のステージは高校3年の時の文化祭だった。
 当日、稲葉さんの喉はつぶれてしまっていて、本人としては
 不出来に終わったようだが、学内の評判は上々だったようだ。
 「バンドでまとまって、1つのものを完成させていくことは、
 とても気持ちが良かった。受験勉強をしていても、ふと
 バンドの練習がしたいなぁと思うようになっていました。」
 この発言から、まだプロを目指すつもりはなかったらしいが、
 バンドにはまっていたことはうかがえる。


 
大学時代


 横浜国立大学に進学した稲葉さん。
 「田舎ものだったので、横浜という名前に魅かれて。」
 と語っているが、教育学部を選んだことにはちゃんと理由がある。
 それは、中3当時に放映されていた「金八先生」に感化されたことと、
 その時の担任であった理科の先生が好きで、教師という
 職業の素晴らしさに目覚めたこと、の2点になるだろう。
 しかし、稲葉さんの大学生活は「地味だった」そうである。
 大学生になった最初の頃は、近隣の大学に進学した友人と
 バンドをやっていたほうがずっとリラックスできたという。
 大学のサークルのバンドと掛け持ちをしていた。
 そこではドラムを叩いたりもしていたらしい。
 そんな、音楽三昧の生活を送る中で、教職の資格を取得するために
 小学校と中学校に教育実習にいっている。
 「小学校で1ヶ月の教育実習をやったとき、なんか職員室の雰囲気に
 馴染めないものを感じたんですよね。次に付属の中学校にいったんですけど
 初日のオリエンテーションの最後に、担当の先生から
 呼び出されちゃってね・・・。」
 そしてこう言われたのである。「髪、切ってもらえますか?」
 稲葉さんの答えは、「実習やめます」だったそうだ。
 こうして教育実習の場から背を向けることになった稲葉さんは、
 就職をせずにフリーター生活をおくることになったのだった。



松本さんとの出会い


 フリーター生活をしていたとき、音楽振興会にかよっていた。
 そこでとったデモテープが松本さんとの出会いへ
 と導いてくれた。このころ松本さんは
 すでにTMNなどのサポートメンバーをつとめていた。
 ちょうど松本さんがバンドを結成しようと動き出したときに、
 所属事務所(being)に届けられていた稲葉さんのデモテープに出会った。
 「俺が探していたのはこのヴォーカルだ!」とテープを聞いたとたんに
 体中に電流がビビッと走ったと言う。
 「この男に会ってみたい!!」と思ったらしい。
 さっそくbeingから稲葉さんに「会わせたい人がいる」と連絡が入り、
 松本さんに会う事になった。
 「あのデモテープはスタジオで録ったわけじゃないから音質はメチャクチャ。
 なんで気に入ってくれたんだろう・・・」と半信半疑だったそう。
 松本さんにあった第一印象は
 「あ、雑誌でみたことある、松本孝弘だ。」というもの。
 「君が稲葉君だね。」と松本さんの挨拶もそっけないものだった。
 会話もそこそこに、「とりあえず、軽く音を出してみない?」
 という松本さんの提案で
 後日セッションをすることになった。曲はビートルズの
 「Oh!Daring」と「Let It Be」(92年の”TIME”ツアーでB’z結成の
 きっかけとなった曲として演奏された)
 小さなスタジオ、しかもギターとアンプしかない状況だった。
 (稲葉さんはマイクなしで歌ったらしい)
 2曲を歌い終えたとき、アンプが故障してしまう
 というハプニングが起ってしまった。
 「じゃあ、どうも!終わりましょう。」と松本さん。
 この言葉に稲葉さんは少々拍子抜けしたという。
 「よし!これでいこう!」とか「一緒にやろう!」
 などといった言葉はなかったようだ。
 前述の”TIME”ツアーのMCで出会いの話をしているときに
 「松本さんから、一緒にバンドをやろうと言われたことがない」
 とギャグを飛ばしていたほど。
 たった2曲でお互いをベストパートナーだと悟ったのだろう。
 まさに運命的な出会いであったといえる。
 1988年5月のことだった。



デビュー間もない頃


 稲葉さんはフリーター生活からいきなりプロの世界
 に飛びこんでいくことになったわけだが
 実は意外な壁があった。それは「日本語で歌うのがはずかしい」というもの。
 「自分の言葉で歌うのがあんなに恥ずかしいとは思わなかった」らしい。
 稲葉さんのバンド活動は外国のバンドのコピーが中心で、日本語の歌詞
 (しかも自分が書いた詞)を歌うことなどなかったのである。
 しかし、松本さんの大胆さにもビックリする。
 そんな稲葉さんにいきなり詞をかかせるのだから・・・。
 稲葉さんにとってデビューシングルの『だからその手を離して』は
 最も忘れがたい曲に違いない。
 「レコーディングが決まった時から『だからその手を離して』
 の歌詞がぐるぐる回っていた。寝ても覚めても、歌詞が出てきたなぁ。
 いまでも何かの拍子にポロッとでてくるんだよね。」
 と語ったほどである。
 B’zのデビュー当時は空前のバンドブーム。
 それだけにヴォーカルとギターという
 ユニットの形態はかなり異色の、かつ斬新なものだった。
 「二人組み?なにそれ?バンドじゃないの?」と業界にはB’zを
 受け入れないムードが漂っていたらしい。
 「自分達としては二人の方が小回りがきくし、便利に感じていたんですけどね。
 打ちこみでなく生でやりたい時はメンバーを呼べばできるわけだし。」
 と稲葉さんはチョット不満げに語っている。
 現在は誰もが認めるトップバンドになった二人だが、
 デビュー当時は苦労してきた。
 デビューアルバム『B’z』は最高位37位(セールスは約34万枚)。
 そして、売れる売れないという問題だけでなく、プロ生活の短い稲葉さんには
 大変な苦労があった。とくにアルバム『OFF THE ROCK』のときは
 「最悪だった」と語っているほど。
 松本さんの曲がとっくにできあがっているのに詞が全く追いつかず、
 レコーディングが遅れるといった状況になっていた。
 周りからは責められるし、地方へのキャンペーンがはいってくるしで
 作詞に集中できなかった。しかもやっとの思いで完成した詞をもっていくと
 なんだかんだとケチをつけられたのである。
 もちろん松本さんも稲葉さんをいじめるために
 ダメ出しをしていたわけではない。
 プロデューサーの立場としても、
 あまり出来のよくない詞を採用するわけにはいかなかったのである。
 ようやく仕上がった『OFF THE ROCK』は
 専門家にも高い評価を得ることが出来た。
 これ以来(『OFF THE ROCK』以来)
 松本さんは稲葉さんの歌詞に関してお任せ状態になったという。
 「結果としてはすごく勉強になりました。」と稲葉さんは語る。しかし、
 「でもね、未だに『OFF THE ROCK』を聴くと
 どんよりした気分になるんですよ。
 あのときの苦悩を思い出して。」とも語っている。
 このように、『BAD COMMUNICATION』が
 ミリオンセラーを記録するまでの
 約1年間はB’zにとっては苦悩の日々だったに違いない。



作詞・作曲の仕方


 松本さんが作った曲に稲葉さんが歌詞をつけるというのは
 デビュー以来つづいている有名な話だ。
 稲葉さんは歌詞を書くときは、
 まず英語のフレーズで音に乗せ、そこから日本語で埋めなおしていく
 というのも有名な話。そのまま(英語詞のまま)CD化ということもある。
 (例えば『BAD COMMUNICATION』では、
 英語バージョンをアナログ盤でつくり
 ディスコ業界に無料で配布して売り込んだという。
 結果『BAD~』は最初英語バージョンから
 有線で火がつき、ディスコでも人気沸騰。 そして日本語詞のほうでも人気が高まり
 ついに初のミリオンセラーを達成したのである。
 ここからB’z伝説がはじまったといっても過言ではないだろう。)
 「『WICKED BEAT』はお遊び的な要素があったから
 レコーディングが楽しかった。これ全部英語でしょ。
 英語がペラペラなんじゃないかと勘違いする人が多いみたいだけど
 、そうでもないですよ。相手の言う事がわかる程度で・・・。」
 と語ってはいるが、ほんとのところはどうなのだろうか。
 ところで、詞のネタにはしばしば実体験に基づくものがあるらしい。
 例えば『EASY COME、 EASY GO!』なかに出てくる歌詞で
 「昔卒業の寄せ書きに書いたことのあるクサい言葉 『逆境にくじけるな』といま~」
 というのがあるが、実はこれほんとのはなしなのである。
 小学校の卒業アルバムに稲葉さんは同じ言葉を残している。
 さらに『もう一度キスしたかった』も実話に近いのではないかと推測できる。
 というのも、「けっこうリアルだったりして・・・」
 と意味深な発言があるのだ。



ヴォーカリスト稲葉さんの力量


 ヴォーカリスト稲葉さんの魅力はいったいどこにあるのだろうか?
 ズバリそれは音域の広さにあるといえよう。
 低音から高音までをスムーズに歌いこなせるだけの領域を
 もっているのはもちろんだが、元の音の整数倍振動する「倍音」
 というものがたくさん出るらしい。(僕には詳しくわかりません(汗))
 稲葉の多彩な声はこの倍音を基調に生まれているらしい。
 (僕はあのシャウトがスゴイ好きだ。)
 こういう魅力的な声を持つ稲葉さんだが、音楽的に色々試してみたい
 という欲求や、ヴォーカリストとしての興味から、常に自分にも
 あるかもしれない新しい声の領域を求めているという。
 「みんなが思っている”稲葉の声”じゃないところ
 も探したくなっちゃうんですよね。」と本人は語っている。
 稲葉さんには、自分にはないから逆に憧れてしまう声というのもあるそうだ。
 ところで、ヴォーカリストにとっての喉は命ともいえる。
 その喉を稲葉さんはどのようにケアしているのだろうか。
 稲葉さんの喉はとても繊細だとか。
 「ツアー中はどうしてこんなに気を遣わなけりゃいけないの?と自分でも思う。」
 と語っているほどである。
 この発言だけでも喉には気を遣っていることがわかるが、
 では、具体的にはどういった努力をしているのかというと、
 1日1度は運動して汗を流し基礎体力の維持を。
 そして、家にいても車に乗っていてもとにかく声を出すことを
 心がけているらしい。さらに、喉の感想を防ぐために、
 夏は極力エアコンをつけずに過ごし、冬に外出する時には
 常にマスクを携帯しているそうだ。
 そして、コンサートの時には特製ドリンクによるケアを励行している。
 その特製ドリンクというのはハチミツをお湯で溶いたものだそう。
 「ハチミツのトロッとした甘さが喉には絶対良いような気がする。
 声に滑らかさと張り、艶がでるんだよね。」ということらしい。
 あの美声は、やはり日常のトレーニングとケアの上に
 成り立っているのである。(天性の素質はもちろんのこと)



ソロ活動


 『マグマ』にはB’zのそれとはまた違った魅力が感じられる。
 「テンポ感は僕個人はミドル系が好み。 あと、一番ベーシックなところはそんなに
 音がたくさん入っていなくても楽しめるのが好き。
 だからソロとして出すときの自分の音は
 隙間が多くてもイイっていうのが基本的なスタイルです。」と語っている。
 この発言からB’zの稲葉浩志とソロの稲葉浩志を
 別々に位置付けていることがうかがえる。
 松本さんは、マグマを聴いて、
 「言葉と歌がすごくちゃんとはいっている。イントロとリズムはどんなだったっけ?
 と思うぐらい。歌う人はこういうアルバムを作るべきだなと思ったよ。
 すごいシンガーらしいアルバム。」と評している。
 稲葉さんは『マグマ』をつくるにあたって「長く聴けるものが作りたい」と
 考えていたそうである。日本の音楽シーンの短いサイクルに、
 虚しさや寂しさを感じていたという。
 「何回も何回も聴いてもうチョット長く作品と付き合ってほしい。」
 という気持ちが強いらしい。
 (実際僕は、買った当初よりも今のほうがはまっている。
 ちなみに『マグマ』のなかで一番好きな曲は『波』。)
 ソロ2作目となった『遠くまで』だが、マキシシングルになった理由として
 「8センチのシングルCDという形態があまり好きじゃないだけ。 それにマキシだと、
 シングルよりたくさん曲が入れられるし、
 パッケージや写真ももっと楽しめそうな気がしたので」
 と語っている。このCDでは、全曲の作詞・作曲・編曲はもちろんだが、
 パッケージの写真選びやジャケットの紙質までプロデュースしているのだ。
 (あの紙質は個人的に大好き)
 製作中はアイデアを生み出すことに夜も眠れないほどに興奮し、
 沸いてきたアイデアがあると
 朝が待ちきれないほどの思いだったようだ。ソロワークは
 「音楽をやってはいるけど、気持ちはオフ状態」と語っていることから推測すると
 仕事という感じではなく趣味としてやっているのではないだろうか。


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